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戸松有葉の ショートショート1001作を目指す旅

ショートショートとAmazon電子書籍販売・配布の活動をしています。

963 誇大広告禁止

 

 よく耳にする、広告文句。

 この映画に、全米が泣いた、震撼した――。

 有名俳優が起用され制作費も膨大で、実際ヒットもしていることは、誰も否定しない事実だ。しかしながらこうした広告文句については、嘘と断じる他ない。
 日本のような国ならまだしも、アメリカだ。
 アメリカには、英語もわからない人が多数存在し、映画どころではない貧しい人が多数存在し、地域によってはハリウッド映画であろうと知られていない。
 つまり「全米」という表現は、誇張にも程がある。
 ついで言えば、別に泣いていない、震撼していない。
 広告も商売の一環である以上、自由であり、制限を与えることは競争を阻害することにもなる。しかし不当競争に繋がるようであれば、安易に認めていいわけではない。簡単には、嘘を吐いて商品を宣伝してはいけないということだ。
 広告のいかんによって業界が衰退するといった例もある。自由の国アメリカならいかにもありそうだが、日本にだってあるものだ。嘘がまかり通りその監視・修正がない、格付け会社ではないにせよその役割を担う企業が不当評価で消費者を欺く……、そうしたことを続けた結果、信用を失い、売れなくなってしまった。
 広告には、自由を制限する、規制も必要なのである。
 アメリカに規制など生まれはしなかったが、規制大国日本では、アメリカ(外国産)映画を含む広告の打ち方に規制が設けられることとなった。
 先の「全米が~」はもちろん規制対象。禁止である。
 とはいえ、宣伝を何もできなくなるほど厳しいかといえば、そうでもなかった。うるさい議論は生まれても、結局、規制対象外との判断になることが多いからだ。
 その例の一つ。

 正義と悪の戦い――。

 日本では単純なものは好まれにくいかもしれないが、アメリカ映画では定番である。そして何だかんだいって、エンターテインメントは日本人も、わかりやすくカタルシスを得られるものが好きだ。
 しかし、「正義」、これが引っかかった。正義だと断言して広告するのはいかがなものか、と。
 正義とはつまり、個人でいえば、自己愛性パーソナリティ障碍の症状である。異常者であり、非常に迷惑な存在だ。
 正義の味方という言い方は、正義に味方する者ということで、正義そのものに人間は該当しないからそう呼ばれるわけだが、彼らは自分が正義そのものであるので、「正義の味方」ですらない。そしてそんな狂った正義に純粋に味方する者がいるとするなら、同種の異常者くらいである。
 正義は平気で嘘を吐き法も破る。だから例えば、警察を正義だと思う子供は、歪んだ認識を持ちながら、実に正しい認識を持っていることにもなる。
 かつて猛威を奮った、共産主義儒教も、宗教という迷妄を弾圧したが、不合理なものを信じて疑わず自らを正義とするその姿は、まさしく宗教そのものだった。
 アメリカ人(主人公)の正義やアメリカの正義は、世界の正義や普遍の正義では決してない。
「傲慢なことを堂々と。お里が知れるというものだ」
「確かに向こうでお砂糖はシュガーですが」
「邦画だと子供向け特撮映画で規制適用したから、それとの整合性を考えると」
「あそこって手掛けてる奴らも子供並の頭なのかね。誰かはっきり教えてやったらいいんじゃないの? それよりさ、この映画、派手に悪をぶっ殺すのがウリなのに、眠くなるよなあ」
 白熱した議論が行われる。
 しかし、厳しすぎるとの見解もあり、大半の担当者が映画や広告のチェック中に寝ているか不在なため何も把握しておらず、天下りおよび癒着があるのだから結論は先に決まっている。
 厳正に検討した結果、問題なしとなった。
 絶対的な正義がないのなら、規制という正義を押し付けるわけにもいかない。正義など、立場の違いでしかない。
 そう、例えば、広告規制によって生じた利権の数々は、恩恵受ける者にとってはいつも通りの自然な正義だが、他の国民にとっては絶大な悪であるように。

(了)

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