戸松有葉の ショートショート1001作を目指す旅

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976 海の向こう

 彼は、海を初めて見た。
 便宜上「彼」としているが、性別はないため、雄であるわけではない。ただ、彼を知るヒトは、しばしば「彼」と呼んではいたので、彼自身もそれを受け入れている感覚だ。
 海の存在自体は知識としてインプットされている。しかし見るのは初めてであるし、海を目の当たりにしてどうすればいいかという行動も定められてはいない。

「海ノ向こうハどうなっているのカ」

 行ってみたいと思った。何故そう思ったのかは、彼自身もわからない。即座に自問してみたが、わからなかった。
 ヒトは、大航海時代よりも前から、海を渡ろうとしていた。実際渡ることにも、低確率であっても成功している。危険な旅だ。海の向こうに何があるかも定かではないのに、それでも海原へと飛び出した。
 大航海時代ならまだしも、それ以前にこうした行動を取っていた理由・動機は、はっきりしない。
 やはり信仰心があったのか、食料確保のためやむを得なかったのか、原始時代において好奇心は命よりも尊かったのか……。
 わからないが、しかし今、ヒトと同じ感性を持つよう創られた彼は、海の向こうへ行ってみたいと思った。

「行ってみれバ、わかるかもしれナイ」

 幸い、ヒトとは異なり、危険性は少ない。絶対ではもちろんないが、脆弱な――既に滅んでしまったヒトとは、身体の出来が違う。精巧な船すら用意する必要はない。
 決意を固めると、彼は旅立つ旨を頑丈な合成樹脂に記録して、その場に突き立てた。遠目からでもわかるほどの高さだ。誰かが気付いてくれるだろう。
 もう帰って来ないかもしれない、あるいはアクシデントで帰って来られないかもしれない。だから自身の行為・想いを残して去りたかったのだ。

「準備ハ整っタ」

 彼は、傍から見れば入水のように海へと入っていき、海の先を目指した。
 どれほど時間が経っただろうか。正確な時間を把握することは可能だったが、遠大な距離を渡ったという感傷を失いたくないため、敢えて彼は時間を確認せず、その陸地に足を踏み入れた。
 陸地だ。海の向こうには陸があったのだ。
 この陸が大陸なのか島なのか、そんな定義はどうでもよく、陸を発見できた高揚感でいっぱいになる。
 もしかすると、かつてのヒトは、この感覚を味わいたいがために、海を渡ったのかもしれない――。そんなことまで推測した。
 興奮覚めやらない彼は、次なる発見を求めて、陸地を探索し始めた。

「まずハ、形ダ」

 奥地も気になるが、海岸沿いを先に調べることにする。そうすれば陸の形状もわかるというものだ。
 そうして探索していると、興奮も落ち着いてくる。新しい発見がないことも影響していそうだ。段々と単調な作業のようになっていった時、彼はあるものを発見して、衝撃を受けた。
 陸を発見した時よりも強い衝撃が、それの発見にはあった。
 彼に涙の機能は備わっていないが、この時に合わせたように、付着していた海水が滴り落ちる。
 感情面では紛れもなく泣いていた。

「何かノ間違いかもしれナイ」

 違うと理解しつつも、彼はそれに駆け寄って確かめる。そしてやはり間違いではなかったことを知ってしまう。
 おそらくこれを初めて見付けたのは、他の誰でもなく、彼だろう。
 海の向こうは確かに陸だった。ただし、湾なので歩いても行ける場所だった。
 彼は自身で立てた合成樹脂をなぎ倒し、記録を抹消した。

(了)

 

海の向こう側 (Hayakawa Novels)

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