戸松有葉の ショートショート1001作を目指す旅

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981 捨て猫に餌をやる不良がいい奴に見える心理

 現実的ではない上、昨今は野良猫を放置しない自治体も多いことから、その光景を見かけることはないだろう。だが演出としてはよく知られている。実際に見かけなくとも、知識は持っているのではないだろうか。

 ダンボールに入れられた捨て猫に、餌をやったり、雨傘をさしてやったりする、不良生徒。

 不良なのに、優しい一面を知って、好感を持つというものだ。
 しかもその好感は強いものであり、例えば普段から優しい少年少女が同じことをしていて抱く好感よりも、強い好感となる。いつもと違う面を見られたこと、不良行為と猫を可愛がる様子のギャップが、そうさせる。
 だが当然、こんなものは、ちょっとした錯覚に過ぎない。
 普段からいい奴のほうが、圧倒的にいい奴に決っている。
 不良が捨て猫に優しかったところで、これまでの所業の数々がなかったことにはならない。反省もしていない。捨て猫に向ける優しさをほんのわずかでも被害者に与えることができない、クズだ。
 捨て猫との出会いを契機に更生というのなら、まだ話はわかる。誰にでも間違いはあるし、若い身だ。これまでを反省し、変わっていくのなら、過去を不問にすることも被害当事者でなければ容易だろう。ではこの不良と捨て猫のエピソードは、そのような美談なのか? まるで違う。猫だけには優しい犯罪者のままであって、何一つ他人が好感を持つ要素がない。
 繰り返すが、ちょっとした錯覚なのである。

 さて、以上のことを踏まえた上で本題に入る。
 この錯覚を利用することは、創作物によくある。そもそも不良と捨て猫のエピソードも創作だが。
 高低の差を付ければ、「上」を描かなくとも、「中」と「下」を描くだけで、「上」のように見せることが可能なのだ。
 まず主人公を、常識の範疇では考えられないほどに、無能で他者への配慮も欠いた人物として描く。その後、それらが取り払われる。すると、登場人物たちや客は、感動さえして、「主人公は成長した」と思う。
 成長も何も、「下」がせいぜい「中」になっただけである。「上」になどなっていない。他の「上」や「中」の人間が不憫だ。
 始末の悪いことに、今の例を冒頭からではなく途中から行なうこともある。つまり最初は「中」だったのに、何かあって、あるいは何もないのに「下」に陥り、そこから「中」に戻ることで、錯覚させる。
 その作品は、ちょっとした錯覚を利用しているだけであって、客は騙されている。「上」を描いて初めて成長が描かれるのだ。
 創作者の技量も疑わざるを得ない。創作者自身が「上」ではないか「上」を知らなさ過ぎるために、「中」と「下」だけを使って成長もどきを作っているのではないか。
 客を「騙されている」と表現したが、あまり被害者のように扱う気はない。「下」を見ることでの優越感、「下」が「中」になることを見守ることでの優越感。見下すことで楽しんでいる。そこには向上というものが微塵も見られない。

 今年大ヒットし、社会現象とまで呼ばれた映画も、この手法を使っていた。そればかりか、初めに説明した、不良と捨て猫のエピソードほぼそのままも出てきた。
 錯覚だとの真相をどれだけの人が理解しているのか。嘆かわしい現実だ。
 観客は面白かったと口々に言い、インターネットでもテレビでも話題になり、興行成績・観客動員共に記録的なヒットとなった。リピーターも多く、何十回と足を運んだ者もいる。
 私は三回止まりだ。言うほどのリピーターではない。何故一回で終えなかったのか、一回も観ないで終えなかったのかと言えば、面白そうだと思い、観てみると面白かったからである。
 私はこのヒット作を強く批判する稀有な存在だが、観ないとも面白くないとも一度も言っていない。

(了)